物申す散文

日常で見つけこと、思ったことを、書き散らかしています。

痴漢駆逐する女

ある朝。例の如く、私は日比谷線のとある駅のホームに立っていた。通勤ラッシュに差しかかりつつあるホームは人々で溢れ、北千住方面から来る電車にも、相当な数の人間が詰め込まれているのだろう。

社畜」という言葉がこれほどにふさわしい光景はない。そんな、いつもの朝だった。

異変を感じ取ったのは電車のドアが開いた瞬間だった。何やら車内が騒がしい。

「ふざけんなよ!おい!」

そんな罵倒が車内から聞こえてくるのだ。それも、その声の主は恐らく女性だった。

ホームの人々は車内を怪訝に覗きこむ。すると、一人の男性と女性が取っ組み合いをしながらホームに出てきた。ただ、取っ組み合いといっても、イニシアティブは女性にあるようで、寄り切りのような形で女性が男性をホームに押し出していた。ホームにいた人間は異常な事態を悟り、思わず男性と女性の周りのスペースを空ける。

そこにいた人間は皆、思っただろう。

「あぁ、これは…あれか」と。

女性が叫ぶ。

「ふざけんな!おめぇ、触っただろう!」

あぁ、やはりそうか。今、目の前で起こっていることは異常事態であることに変わりはない。しかし、あまりにもテンプレ通りの展開で、そこにいる誰もがその痴漢という非日常を飲み込み、どこかで見たことのある風景のように一部始終を見ていた。

駅員が事態に気が付き、駆け寄ってくる。間違いなく、一件落着だろう。女性の勇気によってどうやらこの男は捕まるらしい。ホームの人間たちがちょっとした非日常から日常へ戻ろうとする。

しかし、ホームは再び異常事態と化した。

女性の右ストレートが、男の顔面を捕らえたのだ。女性はさらに左、右と追いパンチ。男性はたまらず、女性の腕を掴むようにして抵抗。

女性のパンチのラッシュ。男性は防戦一方。まわりの人間は完全にドン引きし、誰も手を出さない。駅員も謎の距離を保ち、まるでレフリーかのよう。レフリーだとすれば、もうテクニカルノックアウトを宣言して欲しいくいらいの男性の戦意喪失っぷりだった。

さすがに見かねて女性を止めたのは、サラリーマンだ。もはや、そこにいる誰もが痴漢男に同情をしていた。むしろ、「この人冤罪では?」と思う程のやられようだった。

なんにせよ、多少過激ではあるが一件落着だろう。

ホームの人間たちが非日常から日常へ戻ろうとする。

しかし、ホームは再び異常事態と化した。

男性が、スキを見て逃げ出したのだ。男性は長いホームを全速力で駆け抜ける。さっきまでのやられっぷりからは考えられないほど、美しいフォームで。

女性が「誰か捕まえて!」と叫ぶ。しかし、突然の出来事で、ホームにいる人間の反応が遅れる。サラリーマンが数人、痴漢男を追うがその差は埋まりそうにない。痴漢男はホームに居る人の間を縫っていく。

痴漢男が向かう先にはスマホを見ているサラリーマンが一人。ただ、彼の視線は画面に集中しており、全くもって状況を把握できそうにない。

今思えば凄い一日の幕開けだった。

朝一から痴漢の現場に遭遇し、女性の怒涛のパンチの応酬。痴漢男の美しいランニングフォーム。

しかし、上には上がいるとはこのことだろう。

痴漢男スマホサラリーマンの横を通り過ぎようとした瞬間、スマホサラリーマンは左脚を力強く踏み出し、その右腕で美しいラリアットを決めたのだ。

そのラリアットはお互いの運動エネルギーを利用し、圧倒的な破壊力で痴漢男をホームに沈めた。それはさながら、プロレスラーが相手をロープに振った後に食らわせるあれと同じだった。

痴漢男はホームに倒れこみ、そこを追いかけてきたサラリーマン数人が抑え込む。駅員もそこに駆けつけ、朝の騒動は幕を閉じた。

ホームには発射のベルが鳴り響いていた。そのベルは人々の目を現実に覚まさせるようだった。労働者たちは何事もなかったかのように電車へ乗り込む。その光景は本当に何事もなかったかのようだった。

一人の男の人生が終わる瞬間というのはこうもあっけないらしい。

私は電車の中で、自分がもし冤罪であの男の立場になったときにその場を凌ぐことができるだろうかと考える。

無理だと思った。

女性のコンビネーションパンチを捌き切り、敵意むき出しの男性陣の中を走り抜け、突然飛んでくるラッリアットを走りながら回避するなど、到底無理だと思った。

だからこそ、気をつけなければならない。疑われたらお終いだ。

手はつり革に。それが、自分の身を守る唯一の方法なのだ。

男性のみなさん、気をつけて下さい。

女性のみなさん、それ以上に気をつけて下さい。

(実話です)