物申す散文

日常で見つけこと、思ったことを、書き散らかしています。

日常の全力とバイアス

日常生活で全力で体を動かすという事態はなかなかあるものでない。何かに急いでいる時でさえ全力で駆ける人間はごく少数だろう。私が見た日常での全速力といえば、日比谷線は入谷駅で見た痴漢男がホームを逃げていく場面だが、あれはもはや日常とは呼ばないかもしれない。

しかし、今朝見たあれは日常の範疇での驚くべき全力だった。

今朝。9時頃だっただろうか、西船橋のJR改札から東西線直結の改札へ移動している時だった。この乗り換えは非常にタイトなため、毎朝私は気持ち早歩きで乗り換えを行っている。

今日も例のごとく、私はBPM120ほどの間隔で東西線の改札を目指した。周りにいる方々もなんとなく見慣れた面子。9時04分の通勤快速中野行きにいつも乗っている顔ぶれだ。明日が土曜からか、彼らの足取りは週の初めより少し軽く見えた。しかし、それ以外は何ら変わらない、平凡な日常がまさに始まろうとしていた。

異変に気がついたのは、東西線の改札機まであと10mの地点。背後から「タンッ!タンッ!」と大きな音がだんだんと近づいてくるのを感じた時だった。朝の混雑している駅ではなかなか聴くことのない音に私は思わず振り返る。

その瞬間、黒い影が目の前を、文字通り瞬く間に、通り過ぎる。私は反射的に踵を返し、その物体に目を向けた。

それは、黒豹のようだった。真っ黒な容姿、力強いストライド、まるで飛んでいるかのように遠くへ遠くへと運ばれる足、そして、その圧倒的なスピード。

その正体は、少なくとも商社や外銀ではない雰囲気を醸す黒いスーツのサラリーマンだった。

私は驚愕した。

彼の左手にはビジネスバッグがあったからだ。彼の走る姿はスプリンターそのもの。左右の偏りを矯正しつつ、美しいフォームを保つ彼の体幹は相当なものだろう。

そして、私はさらに驚愕した。

彼は改札機までの10mを3歩ほどで詰めたかと思うと、全くスピードを落とすことなく改札機をすり抜けたのだ。

「ありえない」

私は思わず口にした。力強く腕を振る中、改札機の「ピッ」のところに丁度よく握られたパスケースを着地させるなど人間業ではない。彼の一連の動作はほんとにスムーズで、視力0.5以下の人間が見れば初めから改札機がなかったかのように錯覚しただろう。

私は強く思った。

「あれができるようになりたい」と。

自然と歩みが速くなる。気がつけば私は全力で構内を駆けていた。そして、改札機にぶつかる勢いで、財布を「ピッ」のところにかざし、わりとスムーズに通れてしまった。

そう、全てはバイアスだったのだ。思い込みには注意しよう。

驚くべきキャッチの青年@西船橋タクシー乗り場

終電後、西船橋のタクシー乗り場には50mほどの列ができる。

 

並んでいる面子は様々だ。

飲み過ぎで千鳥足気味の役職者風中年、お持ち帰りコース一直線の男女、意図せぬ残業に疲弊している若手サラリーマン。今からどこかの飲み会に向かわんとする謎バイタリティ野郎もごく稀に見かけるが、みんなの願いは大体共通している。

 

「早くタクシーに乗って、寝たい(ヤりたい)」だ。

 

ただ、それでもタクシーに乗るまでに20分はかかる。その時間は待つ側にとっては結構苦痛だ。特に真冬はかなり体が冷える。そんな、ある凍てつく夜。私は驚くべき体験をした。

 

その日、私は例のごとくタクシーを待つ長蛇の列に並んでいた。そこには、イケイケのキャッチの青年がいた。

 

西船橋のタクシー乗り場は、駅を出てすぐという親切設計のため、周辺のお店のキャッチも集客のために現れることがある。しかし、そのキャッチの青年を見たのは前にも後にもその夜限りだった。

 

時期的には1月くらいだっただろうか、皆真冬の装いをしているにも関わらず、寒さで体が震えていた。そんな中、キャッチの青年はコートなしのジャケットスタイルでヘラヘラと道行く人に声をかける。なんか元気そうな奴がいるなぁと、思ってはいたが、その認識は大いに甘かった。

 

キャッチの青年は声をかけるのに飽きたのか、タクシー列の方によってくると、こう叫んだ。

 

「皆様!お疲れ様です!!寒い中待ってらっしゃる皆さんのために、一発芸やります!!」

 

その一言は、寒さでスマホを扱う元気もない待ち人達を振り向かせるには十二分に魅力的なものだった。そう、我々にとって、彼こそ唯一のエンターテイメントだった。

 

キャッチの青年は皆から見える位置に移動するとこう言った。

 

「AV男優の腰つき!」

 

そして、「ッシャー、アッアーーー!」などと言いつつ物凄い勢いで腰を前後に動かした。

『その場が既に物理的に凍っていたとしても、その場はとりあえず凍る』ということを知った。

しかし、彼はその空気感に臆することなく10秒ほど芸を続け、「ありがとっしたー!」と言って凍るオーディエンスに土下座をし、その場を軽やかに去っていった。

 

残された人々の表情は無だ。心では本当に「あいつヤバイあいつヤバイ」と唱えてるに違いなかったが、皆の顔は悟りを開いていた。かくいう私も同じ顔をしていただろう。

 

タクシー乗り場は何とも言えない空気に包みこまれていた。そして、その状況を打開したのも、やはり彼だった。

彼は先の芸で何か確信を得たのか、再びオーディエンスの前に現れた。そして、叫んだ。

 

「AV女優の真似!」

 

正直、彼が再び現れるという「予想外」と結局AV縛りという「予定調和」が入り混じり、私はすでに笑いを堪えきれないでいた。

 

彼はM字開脚をしながら諸々叫んだ。ただ、オーディエンスの反応はだいぶ変わっていた。皆、表情を持っていた。さっきまでの無ではなく、苛立、苦笑、軽蔑、唖然、爆笑。いろいろな感情が彼を中心に巻き起こっていた。

 

キャッチの青年は迫真の演技を終えると、再び土下座をしながらオーディエンスに感謝の意を唱え、再び軽やかに去っていたった。

 

その背中は達成感に満ち、嬉々としていた。彼がその場の人たちを幸せにしたかどうかは分からないが、少なくとも私はスゴイものを見た気分になり、気がつくと自分のタクシーの番になっていた。彼は、私に待つことを忘れさせてくれたのだ。

 

私は今でもタクシーを待つと彼のことを思い出す。もし、もう一度彼に会うことがあれば、私は何をするだろう?

 

その答えは既に決まっている。皆もおなじだろう。

 

 

そう、「何もしない」だ。

 

#西船橋には変な人が多すぎる。